1.ゴッホがカラーパレットを変更した理由を示す新しいデータ(2/2)まとめ
・ゴッホの色使いの変化はアルルの良い天気の影響を受けたためである可能性が高い
・年代別に比較するとパリを去った後でオーヴェル=シュル=オワーズに行く前のアルルで変化している
・ゴッホ自身も黄色と太陽の関係性を示唆する言葉を残している
2.ゴッホの黄色は太陽の黄色
以下、www.artnome.comより「New Data Shows Why Van Gogh Changed His Color Palette」の意訳です。元記事はJason Baileyさんの2018年12月24日の投稿です。ゴッホの色使いの傾向が突然変化したのは確かに昔から諸説あった事を記憶してます。今回の研究は、データを元にそのトレンドの変化を丹念に調べて従来の説を覆す発見、これはビッグデータに関わる人間としては興味深く大変Good Jobと思います。
ゴッホは温暖な地域に引っ越したので黄色を多く使用するようになったのではないでしょうか?
ゴッホは落ち着きのない性格で、頻繁に引っ越しをしました。彼はまた、特に彼の晩年には屋外で絵を描くために多くの時間を費やしました。
ゴッホが気分のむらに苦しんでいた事は有名なため、私たちは場所と、そしてもっと重要な事、天候が彼の色の使用に影響を与えたかもしれないと思いました。
私たちはこれを検証するために、ゴッホが移住した主な地域毎に作品を合成し、それをその地域の天候と比較しました。その結果は非常に素晴らしいと思います。
以下、天候のグラフは棒グラフの黄色の部分が晴れた日の割合
Hague
Hugueの天候
Nuenen
Nuenenの天候
Paris
Parisの天候
Arles
Arlesの天候
SAINT-REMY
SAINT-REMYの天候
Auvers-sur-Oise
Auvers-sur-Oiseの天候
フランス南部のアルル(Arles)の太陽の下で急上昇した黄色を見てください!ヴァン・ゴッホの印象的な色の移行に影響を与えたのは、南フランスの暖かい天候と鮮やかな色だったと確信しています。これまで考えられてきたような黄視症やフランス印象派からの影響ではありません。
ヴァル・ゴッホはアルルとサンレミーで、文字通り世界が黄色い太陽に染まっているのを見ただけでなく、文字通り良く晴れた太陽の日があったので彼はより頻繁に外に出ることができたのです。太陽や屋外にさらされたことで気分が高まり、それに応じてパレットが明るくなったと考えるのは無理のない推測です。
ゴッホが居住した地域別に色使いを平均する事も幾つかの興味深い事実をもたらしました。
ゴッホの色使いの変化のタイミングをさらに明確にするために、以下のチャートを作成しました。各棒グラフは、その地域で作成された絵画の平均色で色付けされています。グラフは、ヴァン・ゴッホが各地域に住んでいた順序とそこで生産された絵画の総数を示しています。
この表から、ゴッホのパレットがフランスの印象派と過ごした間(左から三番目の棒グラフ)ではなく、過ごした後にシフトしたことが非常に明確にわかります。第一の神話は破綻したと叫びましょう。
チャートから、彼がオーヴェル=シュル=オワーズ(一番右の棒グラフ)でガシェ博士の患者になる前にヴァン・ゴッホのパレットが黄色に変わったことも明らかです。 第二の神話も…また破綻しました。
私達の説である「日光を浴びる機会の増加」はこのチャートと矛盾しておらず、それは客観的データが私達の説を支持している事を示しています。もちろん、相関関係が必ずしも因果関係を意味するわけではなく、天気の影響でヴァン・ゴッホのパレットが切り替わったとは言えません。
しかし、私達はこの仮説が従来の仮説より強い仮説であると感じています。ゴッホは私達に多くの確かな手がかりを残しており、日光が彼により多くの黄色を使うインスピレーションにをもたらしたという私達の説を支持しています。
私達のお気に入りは以下です。
“How wonderful yellow is. It stands for the sun.” – Vincent Van Gogh
(黄色はなんと素晴らしいのでしょう。 それは太陽を意味しています – ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ)
まとめ
Artnomeでは、データと新しい分析ツールを使用すれば、アートやアーティストに重要な新しい見かたを提供できるし、そして提供出来るようになるべきだと強く信じています。本ケースでは、データ視覚化技術を使用することで、ゴッホのカラーパレットの変化に関する2つの最もよく知られている推測を排除できたと比較的自信を持っています。第一の病気と薬説、第二の印象派説。
私達はまた、明るい黄色いパレットへの切り替えの背後にあるより合理的な理論を提案するために気象データと地理データを使用しました。ヴァン・ゴッホがフランス南部に引っ越しとき、彼は晴れた一日を過ごす事が大幅に増えました。彼の世界は劇的に明るくなり、より黄色になりました。彼は(彼自身の芸術的逸脱を加えながら)単に彼が見たものを描いたのです。
本記事は、ArtnomeのデータサイエンティストであるKyle Watersの努力と分析なしには実現できません。彼は短期間でArtnomeに多大な貢献をしました、そして私達は彼と一緒に働き続けることに興奮しています。今後の記事で、彼は、ヴァン・ゴッホの平均画像をどのようにして計算したかの詳細について詳しく説明する予定です。
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いつものように、読んでくれてありがとうご支援に感謝します。 フィードバックはいつでも歓迎です。そして、あなたはjason@artnome.comで我々に連絡することができます
(ゴッホがカラーパレットを変更した理由を示す新しいデータ(1/2)からの続きです)
3.ゴッホがカラーパレットを変更した理由を示す新しいデータ(2/2)感想
パリの後とオーヴェル=シュル=オワーズの前に見事な黄色が現れたのを見た時、とても感動的だっただろうなと思います。他の2説も影響はあったのかもしれませんが、ゴッホ本人が書いているように太陽の黄色なのでしょう。
余談ですが、「生物学的な人間の寿命は125歳が限界説」で紹介した長寿の世界記録保持者である故ジャンヌ=ルイーズ・カルマンさんは13歳の時のアルルに住んでいてゴッホにあった事があるそうで、1988年にゴッホのアルル引っ越し100年記念の際に印象を聞かれて「very ugly, ungracious, impolite, sick — I forgive him, they called him loco.」(非常に醜く、無礼、失礼、病気です。 私は彼を許しますが、彼は狂っていると言われていました)とボロクソに評したそうです。
カルマンさん自身も実は娘さんと途中で入れ替わっている説があります。娘さんは1934年に亡くなっているのですが、その時に本当に亡くなったのはカルマンさん@59歳で、相続税を免れるために娘さん@36歳が入れ替わった説です。さすがに59歳と36歳が入れ替わった説は、無理筋ではないかと思えます。夫も娘婿も孫もまだ生きているので、全員がグルである必要がありますし。唯一、可能性があるとしたら、孫が亡くなって身よりが誰もいなくなって(1963年)、不動産を担保を死ぬまで年金を貰う契約(1965年)をした際に本当は娘だったけれども後付けで書類を揃えて「私はカルマンです、あと何年もしないで死ぬはずなので年金の契約をしてください」と交渉したのであれば、動機があると言えばあるのでしょうか。フランスの死亡届制度が1934年当時にどんな運用であったのか次第ですね。
カルマンさんが本当に世界最高年齢であったとしたら、カルマンさんの誕生日は1875年、ゴッホについてのインタビューは113歳の時なので、是非はともかく100年前なのにこれほど鮮明に覚えているほど強烈な印象をゴッホが与えた事になります。
もし、娘さんだとしたら娘さんの誕生日は1898年なのでゴッホには合った事がなかったけれども90歳の時にインタビューを受けた時点で、子どもの頃に母親のカルマンさんや周りの人から聞いた事を覚えていてそのままボロクソ言ったと。(もしくは純粋な作り話?)
いずれにしても「実際、そうだったんだろうな」と思わせてしまうほどゴッホは強烈なキャラクターであり、絵でもエピソードでも強烈な印象が残る人ですね。
4.ゴッホがカラーパレットを変更した理由を示す新しいデータ(2/2)関連リンク
1)www.artnome.com
New Data Shows Why Van Gogh Changed His Color Palette
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